翌朝。私はいつも通りキッチンに立ち、3人分の朝食を作っていた。
今日の朝食は縁寿の大好きな品目であり、更に戦人くんと食事が出来るということで、縁寿は朝からご機嫌だった。
お気に入りのヘアゴムをきゅっと結んで、さっきから、システムキッチンの向こうでソファーから浮いた足をぱたぱたと動かしている。
戦人くんは、まだ現れない──。
昨夜、戦人くんは行為を終えた後すぐに眠りに落ちてしまったので、私は彼を揺すり起こし、客室へ行くよう促した。
彼は頷きこそしたものの、心ここにあらずといった様子でのろのろと階段を上がっていったので、私はその後ろからついていき、ベッドに倒れ込んだ彼の着衣を正し、布団を掛けてやった。
先ほどから時折、私のすぐ上の天井が微かに鳴るため、彼が目を覚ましていることは分かっている。今、さぞかし彼は苦悩し、私と顔を合わせる事を恐れているのだろう。
縁寿は戦人くんが階段を下りてくることを今か今かと待っていたが、ついに痺れを切らして二階へと走って行った。間もなく、二人分の足音が食卓に現れた。
「…おはよう、ございます」
「おはよう、戦人くん」
私はいつもと変わらない態度で彼に挨拶をした。
「お兄ちゃん、あさねぼう!」
縁寿が戦人くんを茶化して、それから席に着くよう促す。
戦人くんの向かいに座った縁寿は、早速今日の朝食のメニューについて、少ない言葉で懸命に教えてあげようとしている。これが自分の好物であり、どんなに美味しいのか、このメニューを食べられる兄はどんなに幸運か……などなど。
しかし、戦人くんは相づちを打ちながらも上の空のようだった。さりげなくこちらを窺っているのがわかる。
食事を終え、洗い場に立つと、戦人くんが食器を持ってやってきた。
「手伝うっすよ」
「ありがとう。じゃあお皿すすいでもらおうかしら」
二人で並んでシンクに向かう。戦人くんは年寄りと暮らしているからか、意外に家事に慣れているようだった。
「縁寿の食器も持ってきてくれたのね?…縁寿は?」
「部屋に行ってもらってます」
「この後も遊ぶ約束?」
「はい」
ちらと彼の表情を盗み見ると、もどかしげに眉間にしわを寄せている。
「…あの。俺……。もしかして昨夜、霧江さんに……。」
「夢だと思ってるの?」
私がそう囁いた瞬間、戦人くんの手に握られたコーヒーカップが、小さく音をたてる。それを水の中に落すと、私の方へ向き直った。
「すみませんでした…!!」
そして戦人くんは、勢いよく頭を下げた。
「謝るのね。意味ないわよ?もう事は起きちゃったんだから」
「……」
彼は叱られた子どものような表情でうつむいた。
しばしの沈黙。
「酒のせいで、こんなことになっちまったけどさ…本当なんだ」
「俺、霧江さんが好きなんです。だから、だから……。」
「……私の事を?私には留弗夫さんがいるって、知ってるはずよね?」
「当り前ですよ、でも俺、昔から霧江さんのことが好きだったんだ……」
「……明日夢さんのこと、忘れたわけじゃないんでしょう?」
「忘れるわけないだろ」
「じゃ、どうして、私のことを……?」
「頭が良くて。カッコよくて。チェスが強くて。弱さを見せなくて。信念を持っていて。」
──昔から、霧江さんは特別だった。
私が好きな理由一つ一つを、彼は真剣な顔で迷いなく挙げていった。
順番が逆であることを除けば、それはとても青臭い告白だった。
それを、私はまるで俯瞰しているように見ていた。
「こんなの、親父と同じだよな……。本当にすいませんでした、昨日の事は……。
俺の気持ちが本当なことだけ、」
「謝るのね……。」
「……」
戦人くんは黙ってしまう。それでも、目はこちらに真っ直ぐ向けたままで。
その目つきはどこか、学生時代の留弗夫さんを思い出させるものだった。
「教えておくけど。私、そんなに優しい女じゃないわよ。」
時計の音だけがやけに大きく響き、私たちを探す縁寿の声はやけに遠くで聞こえた。そこは静寂に包まれていた、戦人くんの心臓の音が聞こえるような位に。
私たちの関係は一度だけでは終わらなかった。
留弗夫さんは彼との交流が、完全に断裂することを恐れていた。だから、少しでも接点があることを喜んで、私たちのことを疑わなかった。
留弗夫さんは時折戦人くんに連絡し、会いたがっていたけど、彼は頑なに再会を拒否した。
それはそうだろう。今まで抱いていた感情に、後ろめたさがプラスされたのだから。
時は巡り、明日夢の親族が死んでからは、留弗夫さんの働きかけのため、戦人くんは時折私たちの家を訪れるようになった。戦人くんと留弗夫さんの距離は近づいたのかもしれないが、彼らの心は以前よりも確実に離れている。留弗夫さんがいくら頑張ったとしても、もう明日夢が構築した家族は潰れてしまったのだ。今までの日々が報われたと思うと、うれしい。
彼との関係は私の目的のためだ。と言っても私は自分を犠牲にするつもりはないから、気が向いたときにしか抱かれていない。当たり前だけど、子どもに主導権を握らせるわけにはいかないしね。
さすがに留弗夫さんが可哀相だったから、彼の前では戦人くんと以前よりも友好的に接しているように見せている。
戦人くんと仲良くしていると、彼は本当に嬉しそうな顔をするのだ。
……おっかしい。
こんなことを考えながら、私は居間に揃った家族と戦人くんを見ていた。
「おいおい。霧江、何笑ってるんだ?」
「…くすくす。別に……?」
どうやら、いつの間にか口が緩んでいたらしい。
4人の談笑が続く中、ふと時計を見ると、早くも縁寿を入浴させる時間になっていた。
「縁寿、お風呂入りましょ」
「うん!お兄ちゃんも一緒に入ろうよ」
相変わらず縁寿は戦人くんのことが大好き。戦人くんはそら来たとばかりに軽口を叩く。
「もちろん俺はいいぜ〜?霧江さんの生乳を拝めるチャンスだな、いっひっひ!」
「いいわよ?」
「え」
「戦人くんも一緒に入る?」
「え、う、そ、それは──って、うわたたたたッ?!」
戦人くんが悲鳴を上げる。留弗夫さんが、耳を後ろからつねりあげたからだ。
「痛えよ親父!何すんだッ」
「なーに鼻の下伸ばしてんだよ。霧江の胸は俺と縁寿だけのモンだぜ〜?」
「あら。ふふふっ…嬉しい。…それじゃ、縁寿、行きましょうか」
「うー。次は絶対お兄ちゃんも一緒に入ろうねっ。」
「別に伸ばしてねえよ!」などという戦人くんの反論と、留弗夫さんの嬉しそうに彼をからかう声に見送られながら、私たちはリビングを後にした。
「き、霧江さ〜ん…ああいうの、やめて下さいよ…!もし親父にばれちまったら…」
乾かしたばかりの髪を弄びながら、私は笑う。
「いいじゃない、大丈夫よ。くすくす。本気だなんて思うわけないでしょう?戦人くん、おっかしい…」
「霧江さんには敵わないっすよ…」
拗ねてそっぽを向く戦人くん。その大きな姿が子どものように見えて吹き出してしまった。
最初は険しい顔をしていた戦人くんだったが、とうとうつられて笑いだす。
ひとしきり二人で笑った後、戦人くんはそっと私の肩を抱き、押し黙った。苦しそうな表情だった。
「……そうよ。本気だなんて思うわけない」
時間に取り残された彼の部屋。薄い闇の中で、小さなランプに照らされながら、私たちは口づけをした。
日差しの暖かい、穏やかな午後。私は居間のソファーに座っている。
「大分大きくなってきたなぁ。」
私の隣には愛しい彼がいて、その熱い手で、膨らんだお腹を撫でてくれる。
「ええ。蹴るのよ」
優しく撫でる手が気持ちよくて、私は彼の肩に顔を寄せる。安心しきった表情の彼と目が合う。
お腹に置かれていた手は、いつのまにか私の肩を抱いていて。私は目を閉じて、彼に包まれているような感覚に酔いしれる。
ふと、くすぐられるようなこそばゆさを感じて目を開けると、お腹に小さな男の子が耳をつけていた。
「どうだ、聞こえたか?」
「全然…。本当に聞こえるのかよ、心臓の音なんて…」
「ふふ、留弗夫さんはね、聞こえたって言って聞かないのよ?12年前から」
私がそう教えると、少年は一気に怪訝な表情になり、お腹から耳を離そうとしたが、その瞬間頭を留弗夫さんに捕まえられてしまう。
「誰がなんて言ったってなぁ。お前の時は聞こえたんだよ、戦人」
わしわしと頭を撫でられる赤毛の男の子。彼は少しばかりの憎まれ口を叩いて、恥ずかしそうに口を尖らした。お腹に触れている小さな手がたまらなく愛しい……。
「……今日は天気良いな。4人で食事にでも行くか?」
「いいわね。……蹴った。くす、この子も行きたがってるわ。」
「生まれる前から食いしん坊なプリンセスだなぁ。戦人みたいだな。」
「う、うわ……蹴った……!う、ど、どういう意味だ親父ッ!」
耳から直接胎動を感じた少年は、どぎまぎしながら留弗夫さんに言葉を返した。
「ね、今日歩いていかない?」
「ん…お前が良いなら良いけどよ…、大丈夫か?」
「いいの、行きたいの」
夫が車の不調に頭を抱えていたので、徒歩で向かうことにした。それくらい体が軽く、晴れやかな気分だった。
日差しと柔らかな風が心地いい。歩き出そうとしたその時、留弗夫さんの手が私の右手を包んだ。私はこっそりと微笑み、愛をこめて握り返す。隣で歩く少年は、先程の胎動のことが頭から抜けないのか、何となくぼんやりとしている。そんな息子を見かねて、留弗夫さんが突然の提案をした。
「おい戦人、手つないで行けよ」
「な、何言ってんだよ!親父、俺もう小6だぜ?」
案の定彼は真っ赤になって抵抗してみせる。
「いいだろ〜?────を独占できるのも今だけだぜぇ?」
「そうよ。妹が生まれたら、かっこいいお兄ちゃんでいたいものね?くすくす」
そろそろと不安げに手を伸ばしてきた。だから、私はその手を優しく握ってやるのだ。
少年は照れくさそうに笑い、私を見上げて囁いた。
「ありがとう、母さん」
「はッ…………!!!」
私は目を見開いた。
私の周りには深夜の暗闇が広がっており、先程の光景は跡形もなく消えていた。
私は、瞬時にあれが夢であったことを理解する……。
全身がじっとりと嫌な汗で濡れていた。
深夜の室内は暗く、寒い。私は服の中に侵入してきた外気に身を震わせた。
荒い息を隠すように、彼の肩へしがみ付き、顔を寄せる。
留弗夫さんは小さく唸ると、また寝息を立て始めた。
「いや……留弗夫さん……っ……」
そう。12年の歳月を思い返せば、自分が正妻として彼の隣にいることは、代えようのない幸せなのだ。しかしそれでも胸の底から寂しさがぼこぼこと湧き出して止められなかった。煩わしい心音はそれを助長して、私は腹の奥で何度も何度も呻いた。
18年経った今も、彼女の呪縛から私は逃れられない。
明日夢。まさか彼女が身籠り、且つ留弗夫さんがあっさりと結婚を承諾するなんて。
ずっと隣にいたのは私だったのに。彼に必要なのは、冷静で有能なパートナーのはずだと、信じていたのに…。
死産し、自分の総てを打ち砕かれた時から、私にはある空想が取りついて離れない。
もしも、18年前、私の子どもが戦人として生まれてくれていたら、
留弗夫さんは、私を選んでくれたかしら?
そうしたら、きっと私、全然違う右代宮霧江になっていたんでしょうね。
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